ウラメにでた日々

4月から短大生

日々のどうしようもないセイショウドウをつらつらと精神安定の為に小説も書いとるわ

妄想の果て ネクストレベルがお付き合い

そのーー何で三十路越えの俺が今、血気盛んに血管浮き出しオッキして出し入れにこだわるかと言うと、いや拘っては無いんだが、先ずはやることが大事だと思っているんだ。

 

 

付き合いの判断基準を「気乗りがするかどうか」にしてみる - 幸せな人生を送るための手帖

 

 

 

以前この記事を読んですごく共感できた。

 

俺もそういう感じで『付き合う』を前提にしている日本人の恋愛観は狂っていると思う。

正直俺だって日本人だからもセオリー通りの妄想恋愛は未だによく抱く、でもそれは間違っていると確信している。

片想イズムなるものがもてはやされているが、日本人の美徳に妄想することが正しいと植え付けられてやしないか怪訝に思う。

少年誌は非モテ童貞オタクのありもしないハーレム願望の典型であるし、少女漫画はセックス描写を簡略化した人間関係のみを描いた腐女子の育成本である。

妄想こそ美しい。フランス的なロマンシズムとも違う、エンディング悲劇や実らぬ恋を望むわけでもなく誰も傷つけず、自分も傷つかない脳内恋愛

現代の娯楽教養は一方的な自分の願望を己の中で最大限まで膨らませ封印させる究極のオナニー修行である。

 

だから日本人はオナニー教妄想信者なのである。

 

特に童貞はその最たるもので自分を認めない名人なのである。

妄想に更けるほど脳内世界と現実世界の統合が難しくなり、現実を認め直視することができなくなってしまう。失敗、理想に近づけない軟弱性、うまくいかない現実をも正しいと肯定してしまえるようになる。つまり現実世界で度胸がなく怖じけづいて告白できなくても、デートに誘えなくても、肉体関係が結べなくても相手の都合にしたり天気、運、自分の服装、顔のせいにしたりするという意味である。

そして妄想の自分なら出来たのに、相手がこう言ってくれたら行動できたのに、誠実な俺は正しいと常識を盾にしたりと原因を外界に押し付ける。

 

答えはすべて自分のチキンだ。

 

欲望に素直になればやりたいのは何も異常ではない。セックスがしたいのも繁殖したいのも人間は動物であるから当たり前の情動だ。

だからデートしたいと思うことがセックスに連想するのは全く不埒ではない。

しかし、妄想信者はセックスまでの偏った道のりを事細かに想像する。

どちらの手で握ろうか、どこで子供の頃の話をして共感を求めようか、自分の恋愛観を独白しようか、どこまで共感してもらえるだろうか、どこで告白しようか、いつホテルまたは自分の家に誘おうか、次のデートにどうやって誘おうか、別れ際は何時どこにしようかなどあらすじを書きまくるのである。そしてオナニーしまくるのである。

 

だからうまくいかないオナニー三昧

 

重要なのはセックスができるかできないかだけである。どんな誘い方でもいいし、どこで手を握ってもいい。例えば会っていきなりハイタッチ~か~ら~の手つなぎでもいいし

さあ!って両手を広げて待ち構えても抱きついてもいい。

とにかくセックスがしたいなら手をつながないと話にならない。

告白なんて終わった後にすればいい。てゆうか好きなんて言葉はいれる直前に言ってから入れたいのか?そんなに入れたいのか??しょうがねーなーっていうのが一番いい。

 

日本人の男の大半は勘違いをしている。

 

かわいい人に可愛い、美人、綺麗とか言ったほうが気を惹かせるためにはいいと思っているのが大間違いだ。

女性はそれで満足する怪物だ。

 

すべてこれは女の欲望を満たすために仕組まれたマナーという罠である。

女性が欲しいのは好きや愛してるなんて言葉じゃない、チヤホヤされたいんだ。

だから男がデレデレしてしまうような仕草や格好をする。

華やかに視線を感じたいのは蝶と同じで、より多くの蜜を並べていつでもストローでチューチューできれば満足なのである。羽を撫でられたい訳ではない。

それをオスは誉めれば触覚を触らせてくれるなんて妄想を抱いている。

 

そしてバカなメスほど美しく着飾ればより多くの雄に囲まれると妄想している。

 

若い女は自分をお高く見積もっているから、私とデートできただけでもとお茶だけで帰ろうとする。その上は貢がせる。でも自分の価値が下がったと思った時カフェから飲み屋にかわり、ラブホから彼の家にかわったりする。でもたまに違うオスからチヤホヤされると私いける!と勘違いして靴(パンプス)を買い換えたりする。そんな言葉の蜜を欲しがるのが蝶の性である。

 

男の性は射精である。

出せれば満足なのである。だから妄想してオナニーしてはダメなんだ。

それで満足してしまうから、大体うまく行かなかったデートの後は先の濡れて乾いたパンツを下ろし12時オナニーするのが男の鉄板です。

 

だから俺は妄想と戦うことにした。

恋とは妄想のオンパレード、スターマインである。

妄想した虚像を相手に押し付けることが付き合うと言うことではない。

今の若者たちはあまりにも脳内恋愛のし過ぎで付き合い方を知らない。

傷つくことを恐れゲームと同じように人と付き合っている。それでは何の深まりもなく面白味ない。

そこそこ都会に住んでる俺はいつも自転車での帰りに道に手を繋ぎ肩を、肌を寄せ合う男女をみて思う。

そんなに自分の寂しさを見せびらかせたいのか、それほど依存しなければ自分の存在を確認できないのかと。

 

田舎でそんな光景ない。

手なんか繋いでないし、そもそも人がいない。

俺は沖縄へ行った時思った。

美ら海水族館にいるカップルが本当に輝いていた。

地元の人と観光客は一目瞭然である。地元の人(ナイチー)は中学生みたいなハシャギっぷりなのだ。実際中学生もイルカのショーで大興奮していた。

全く嫉妬心を抱かず本当にカップルをみて微笑ましく嬉しい気持ちになった。

都会の子供は廉恥心を知っているなんて大人びた言葉で表現するんじゃなく、怯えているんだ。

建物、電車、高速道路に囲まれ、知ってる大人は片親ばかりで常識知らずの無法者。そんな窮屈な現実から目を逸らしたくなる気持ちはわかる。

 

そりゃあ妄想したくなるよ。

気持ちわかるよ、俺も妄想信者の一人だったから。

 

でも本当のセックスがしたい、本当の人の付き合いがしたいと思ったんだ。

人の付き合いってのは告白して手を繋いでキスしてと肌を重ね合わせていくことではない。

自分の妄想している虚像を現実の彼の人に照らし合わせ虚像をぶっ壊していくことだ。傷ついて傷つけ合うことが必要なんだ。

 

セックスとは好きという感情の結晶だからそこに付き合うという継続的なものな規約を設けてはいけない。

セックスと愛は全くの別物だと思う。セックスをしたとて愛情が育まれるわけでもない。

 

でも何かが刻まれるのは確かなことだ。

実際セックスまで至った人は俺は長く連絡をとれることができている。

食事をしただけの人はあけおめや台風など季節毎の便乗メールに返信なし、既読無視。

でもセックスできた人はほとんど返信してくれるし、何かあったら心配してくれる。

もう一度食事に付き合ってくれたりする場合もあれば、そこから又再開花することもある。

 

セックスできる相手はもともと決まっていて性格が合うからとか都合良く人は言うかもしれないけど、それは嘘だ。

そんな偶然は顔がいいか、若いか、女が堕ちている運が良い時しか起きない。

 

そういうスペックがなくて出来る経験人数なんて一生で10人を越すことはない。

それ以上の回数を望むのであれば飢えなければ結晶を作り出すことなんて不可能だ。

その為に顔を磨いたり、髪型、服、臭い、しゃべり方、姿勢、返事、メールテクなど色んなスキルが必要だ。

 

そして最も重要な事は勇敢なるアクション

 

 

セックスという結晶の中にはその努力も刻まれている。

 

結晶の中のその努力を少しでも見つけてくれていたら俺はその女性をもっと輝かせたい。

 

それを付き合うってことだと思うんだ。