ウラメにでた日々

4月から短大生

日々のどうしようもないセイショウドウをつらつらと精神安定の為に小説も書いとるわ

頭の中に言葉が溢れていく理由

だから僕は、時折ブログを書くんだと思う。そんな理由が分かった。

何か物事を始めるときに理由を聞かれたりするけど、最初から理由はない。

理由って気付くものだ。


本当に些細なきっかけなら存在する。
ちょっと気になる人がやっていたり、知人にやってみたらどう?と言われたり、テレビや本で紹介されていいな〜って思ってみたり。

その一つだけ、ただその一つに色んな理由をこじつける。荷物をいっぱいぶら下げた所で持っていけるかなって事になって、持っていけた時実行される。
あまりにも荷物が重いと、持ち上げただけで諦めてコリャダメだとその場に座り込んでしまう。

そして、諦めた理由がいっぱい残る。


ブログやってる人の理由ってなんだろ

今ウシジマ君でやっているような、情報商材を売りつける為に自分をキャラクター化し、売り込む為に載せてるグルナビ系パーティー三昧リア充ネオヒルズ族(の犬)ブログとか


非正規雇用労働者が結婚出来ず、このまま30を迎えてしまう前に、今までの私(確立したアイデンティティ)は間違っていないけれど、寂しくて堪らないから誰かにチヤホヤされたくて、自慰を披露して、あわよくばネット炎上から有名辛口コラムニストとなり芸能デビューを夢見る自傷ブログとか

本当にブスなサブカル女子の鬱日記とか


顔やスタイルはいいけど、中身はオタクでアニメ、ボカロ、鉄道マニア。スカウトされてアイドルの卵になったが知性が低くてネタも無ければ話も広げられずツイッター、ニコ生から薄い衣装で液晶の前に向かい、全世界へ私情を晒しまくって手に入れたフォロワーや観覧者数、その傍ら忘れ去られた貧相なブログとか


そんな彼らの努力に比べたら僕の内容なんて、ペラッペラで社会に一切貢献していない。
文字数規制の無いTwitterに過ぎない。


だから始めた理由なんて、もうわからない。


でも、ブログでこういう日常の出来事や主観を垂れ流してる人は、結構いる。


と、そろそろ言葉で頭が肥大してきたので、文章の構成も気にしないで近況や気持ちを語ってみたい。


ご存知の方も、知らない方もいると思うけど僕は4月から学生をしている。今年35歳の短大生だ。クラスは29人いるが二十歳が二人で、あとは全員19歳。僕だけ雲の上を飛び出してしまった存在だ。

でも、クラスの子は凄く優しい。
僕を下の名前で〜さんと呼んでくれる。
それだけで昇天する。
まさに雲の上の殿上人の心地良さ。その格差があるから、やっぱり打ち解けられない部分も多くある。
当然、それは予想していたし、当たり前のことだ。2世代程の差があるわけで、僕にこのくらいの子供が居てもおかしくないのだから。

僕もそれを弁えて最初はかなり気を使った。そして、入学当初から気を付けている事がある。


それは、僕からの提示はなるべくしない様にする。その代わり、聞かれたら何でも答えることだ。


僕は挫折者だ。はぐれ者だから立派に人に教授できる身分ではない。いつも心に、僕は『捨ててしまった人』と言い聞かせている。
それをここで、詳細に語る事はしないけど入学する為に、僕はかなりのものを捨てた。分かりやすいもので言えば社会的地位や保証、未来の可能性、安定した暮らし、築いてきた人間関係など。


僕は単身、来た事も無い場所で、やった事が無い事を、知らない人たちと、誰にも勧められず、誰にも保証されず勝手にやっている。

だから、人にどうこう言える立場ではないし、僕が何かしたからと言って褒める人はいないし、叱る人もいない。
無関心の世界に自ら飛び込んだ。


そんな僕に20余名の未成年達が居場所を与えてくれた。

それがどれほど素晴らしく嬉しかったことだろう。

だから、僕は全身全霊を持って出来る限りのことをしてあげたいと思っている。

これをみんなに言ったら、気にし過ぎだと言われそうだが、僕はその位感謝している。

極力口出ししたり、過剰な刺激を与えないように細心の注意を払っている。


僕は、世間から見てもクズ野郎だ。
これは、別に同情で自己承認して欲しくて自責しているわけではない。

うつ病になった経歴、家族間の問題も大きく未解決で放置、所謂ビッチな行動も所詮我欲の為であり、色んな人を傷つけた。

そんな人間が、容易く幸せと言う言葉を選んではいけないと思ってる。
僕が何かを望めば、周りのキラキラした光をひっくり返す事になりかねない。


しかし、そんな心情も露知らずいつの間にか光に囲まれた僕は、チョット楽しんで良いのかなと言う気にさせられている。



例えば、恋だ。
多分クラスの子を1人好きになった。その子は彼氏がいるらしい。



僕は、ビッチ野郎で誰でも出来ればいいと少し前に思っていた。
それは、前の失恋の悲しみを埋め、自分の依存体質を克服する為の修業と言う理由だった。
そんな風に自分を正当化しても、人の時間や気持ちを利用し弄んだ事に変わりはない。
ただの自己中心的なクソ野郎だ。


しかし、その代償は大きかった。
だんだん人を好きなることが分からなくなって、付き合うことが出来なくなった。

それは女性だけでなく、男性にも、つまり人間に対してだった。



前に記事を書いたが、僕はずっと元気を忘れていた。
どういう状態が元気で、どうしたらなれるかわからなかった。


朝は起きられるし、夜も寝れるから鬱状態は抜けたと思い、少し安心していたが、今の良い状態に比べたらまだ狂っていた様に思う。


夜中2時位に眠気のピークが来ると、ずっと押し留めていた蓋の底から、知っているような声が次第に大きく聞こえる。身体を硬直させて恐怖感で安眠出来なくなる。
ドブ川を泳いだ夜の目覚めは最悪だ。

いや、そうで無くとも毎朝背中が痛くて直ぐ起きられない日が3年以上続いている。
その痛みや、時折訪れる倦怠感は鬱や抗鬱薬の後遺症と諦めていた。


クラスのみんなが僕に居場所を作ってくれたおかげで、僕は元気になれた。

背中の痛みは相変わらずだが、最近は、朝も何故か6時に起きて走ったりしてる。


元気とは安心感だ。
恋のような興奮状態ではない。
僕が人を好きになれたのも、安心感が生まれ、また自分が傷つく準備が整ったからだろう。


綺麗な話を覆すようだが、僕にとって恋とは、勘違いの熱エネルギーだと思っている。

条件がある程度揃えば、ほとんどの人に僕は恋すると思う。


恋とはそういう勘違いの身体反応、思考迷路の状態なので、好きや愛などと関係ない。

そうやって1人の事ばかりに縛られた勝手な思考迷走状態で、妄想が高まればいずれ依存対象と化す。

勘違いしないで欲しいが、そんな恋は悪くも愚かでもない。

ただの現象に過ぎないんだ。
そして僕は惚れ易く、信じやすい。だから傷付き易く、落ち込みやすい。


好きっていうのは恋と違う。

僕は、この好きと言う判断基準や発生要素に関して、一生をかけて追い求めてもいいと思っている。


入学したのは、勉強してその答えに近付きたかったのも理由の一つである。

まだ半年も勉強していないが、人間発達学や生物や生理学を学んでいく内にやっぱりかと思えてきた事がある。

今、考える好きの判断基準や発生は、全て環境から生まれている思っている。

つまり、好きという感情は自ら決定し、発しているように思ってしまうが、全ては環境によって操作され決められている。


遺伝子、親、場所、状況は自分で選べない。自分が成熟し、自分の意見は、あたかも自分が決めたように思ってしまうが、その決定に及ぼした成長は、生まれる以前から決定された環境により筋道が作られている。


ならば選んだではなく、選ばさせられたと言うべきだ。
人が人から生まれ、人に育てられる(動物でも同じだが)限り、環境に従わざるをえない。

生憎、生理的早産である人類は1人では成長出来ないからだ。

当たり前の事だよねー。


更に言えば、同情も依存も、憧れも、SEXも全て環境のせいであり、自分で決めたことではない。

環境は自分で決められないわけだから。

だから出会いのきっかけがナンパだろうと、失恋した傷の舐め合いだろうと、友達でも社内恋愛でも、出会い系でも街コンでもなんでも同じと言うのが自論だ。



じゃあ愛ってなんだと言う事だけど…
僕が思うに、あるきっかけを基として色んな荷物を引っ掛けて制約された旅行をすることだと思う。


時に、荷物を減らさないといけないかも知れないし、いつも2人旅行は気疲れしてしまう、トイレ休憩は荷物の番をしないといけなかったりと。


愛は、とても面倒で、嬉しい事より怒れる事が多く、みんなが夢見て目指すような美しいものでは無い。


でも、僕は、折角もらったこの小さくて薄いバンソーコー持って、また旅行に行ってみたいと思う。